A Thousand Trees

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病んだロックンローラーは老いの問題を避けて通る(ジョン・サカモト)

Ailing rockers are skirting the old age issue
by John Sakamoto / July, 25, 2014 / Toronto Star

原文はこちら

腎臓結石。ウィルス性疾患。脊髄膿瘍。

これらの病気は、ポール・マッカートニー、ZZトップのダスティ・ヒル、グレイトフル・デッドの作詞家ロバート・ハンターのような人物が最近かかった、実にありふれた、全然ロックンロール的ではない疾患である。ハンターなどは医療費の足しにするため、73歳の身に鞭打って今週また旅回りに出かけるはめになった。

マッカートニーはフルタイムの活動に復帰したが、ジェフ・ベック、モリッシー、グレッグ・オールマン、ティム・アレクサンダー(今週、心臓の閉塞を除去する手術を受けたプライマスのドラマー)は、それほど順調には行っていない。彼らはみな最近、ジャクソン・ブラウンが「時の征者」〔"time the conqueror"(時の流れには勝てない)2009年発売JB13作目のアルバム・タイトル〕と呼ぶところのものを思い知らされた面々だ。

つまり、こういうことだ。薬の処方だとか、ヘルニアだとか、簡単な外科処置だとか、そういったテーマの歌を書けなどと言うつもりは毛頭ないが、わが青春のロックスターたちもそろそろ、人生の終末に立ち向かうということを歌のメインテーマに据えてもよい時期を迎えているのではなかろうか?

ジョン・ハイアットが今月出したニューアルバム Terms of My Surrender (『わが降伏の条件』)に、"Old People" (「老人」)という曲がある。62歳の誕生日の節目を迎えて、ハイアットには老いという主題を一歩引いた観察者の立場から眺める余裕がまだある。しかし、この4分半の曲で彼がぶつくさ歌っていることは、最近ようやく容赦のない時間の流れを認めるにいたった初老のロッカーなら、誰もが感じることにほぼ近い。


Terms of My SurrenderTerms of My Surrender
(2014/07/31)
John Hiatt

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老人はあつかましい/彼らにはあまり時間がない/老人は喫茶店であんたを押しのける/ビュッフェの列に割り込む -- ハイアットはこう不平をもらす。「まもなく全部終わるさ/あんたを通さないだけの理由があるのさ/彼らはかわいいおじいちゃんにみえるかもしれないが/断じてあんたのケツにキスはしない」

かつてエミリー・ディッキンソンが書いたように、もし死が「魂と塵のあいだの対話」であるなら、わたしたちの世代にふさわしい「衰弱の詩」はいったいどこにあるのだろうか?

かといって、沈思黙考のエレジーや、自己憐憫にひたりきった生気のないだらだらした哀歌を求めているわけではない。この時代(わたしたち自身の時代)は、不平、不満、憤慨、憤懣といったものにはけ口を与える新しい音楽を切実に必要としているのだ。それもうるさければうるさいほどよい。

数週間前、切れ味抜群のカルチャー・ブログ"Dangerous Minds"で、すでに死去したバンドメンバーの姿を消した有名アルバムジャケットのギャラリーが投稿されていた。

アビーロードを横断するのがマッカートニーとリンゴ・スターの二人しかいなかったり、あるいはラモーンズの1stアルバムを飾ったあの崩れかけのレンガ塀に、前屈みの姿勢でもたれる4人のメンバーがひとりも残っていなかったり -- そういう場面を見るのは、最初の5秒ほどは確かに愉快だが、あとは1秒ごとに痛ましさがつのってくる。(*1)

老化しつつあるロッカーが青春の幻を少しでも長くのばそうとあがく姿を眺めるには「不信感の一時停止」が必要だが、どんどんそれも骨の折れる労苦になりつつある。村全体とまではいかなくとも、アリーナくらいは持ちこたえなければならないからだ。

そこで、衰弱のオードと迫りくる老衰のアンセムを紹介しておこう。

「老齢は一日の終わりに燃えさかり荒れ狂うべきだ」と、ディラン・トマスは書いた。

老齢のロックンローラーもまたしかりである。



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  1. 2014/08/16(土) 00:00:00|
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ワールドカップ2014: ひどいフットボール、まずい資本主義 -- イングランド敗北の原因(デヴィッド・クラーク)

World Cup 2014: Bad football, bad capitalism—why England lose
by David Clark / June, 26, 2014 / Prospect

原文はこちら

イングランド史上最悪となったワールドカップ参戦の敗因究明作業は、代表選手のセレクト、戦術、選手の態度、果てはお決まりの犯人探しなど、あいかわらず代わりばえのしない問題ばかり取り上げている。しかし、長期にわたって代表チームのパフォーマンスを阻害してきた、より根深い構造的・文化的要因については、ほとんど注意を払われてこなかった。確かにコーチングのまずさ、タレント欠乏症、プレミアリーグ体制の機能不全という問題はある。しかし、これらは表面にあらわれた兆候にすぎない。イングランドの48年におよぶ挫折には、もっと根本的な原因があり、それらは我らが社会の欠陥、ひいては経済全般の欠陥を反映するものだ。

わが国のフットボールの歴史は、産業資本主義の勃興と切っても切れない関係にある。都市労働者階級の誕生がきっかけとなって、大衆娯楽の一形態としてのフットボールが生まれた。商業帝国イギリスは、それをグローバルなスポーツに変える伝達機構となった。しかし、イギリスは世界にフットボールと資本主義を授けたのち、あれよあれよというまにその両方において二流国に転落した。1914年までには、ドイツとアメリカが工業先進国へとのしあがりつつあった。ジョナサン・ウィルソンがその著作『ピラミッドをひっくり返す:フットボール戦術の歴史』で述べているように、他国が競技を取り入れるとすぐ、フットボールの革新精神は海外に流出した。

これはたんなる偶然の一致にとどまらない。他国がどれほどイギリスの着想を取り入れ、改良をくわえていこうとも、わが国はそこから学ぶことを渋り、認めようともしなかった。スポーツ同様、経済においても、それは傲慢、島国根性、見当違いの文化的優越感のなせるわざだった。フットボール統括団体は、試合には正しいやり方があると信じていた -- ダイレクトプレー、シンプルな試合運び、フィジカル重視といった信条は、イギリス上流階級特有の男らしさという概念に対応するものだ。トレーニングをするというプロフェッショナルの兆しがあらわれると顰蹙を買い、ゴールに突進するかわりにボールをパスを回すというスコットランド流のイノヴェーションも、当初は受け入れられなかった。現在でも、ユース・レヴェルでの指導にはこうした態度が反映されている。ハーフウェイ・ラインでボールを回すたびに「シュートしろ!」と怒号があがり、イングランドはPKの練習をすべきか否かという滑稽きわまりない議論がおこなわれている。

イギリスの資本主義は多くの点で、ロングボール[放り込みサッカー]の経済版だ。ビッグ・バン[金融危機]以前にシティに浸透していた「ジェントルマン的」な価値観は、スポーツにおけるコリント人的精神[貴族的なアマチュアリズム]と同じく今では払拭されてしまったのかもしれないが、その遺産は経営文化のなかで持続しており、利益追求に関しては男性的で直接的にゴールを目指すアプローチを好み、競争相手である外国企業の辛抱強いスタイルとは対照的だ。結果としてイギリスの経済は不安定で不均衡なものになり、他国が買いたがる製品を作るという手間のかかる事業方法よりも、金融工学や借り入れ金主導の経済成長を選択している。

フットボールも産業も短期的成果主義を重視しているのは、たがいに関連がある。それはフットボール・クラブの所有権が株式上場という形態をとるのが主流になっていることを考えるとあきらかだ。その結果、やたら雇用とクビ切りをくりかえす傾向が顕著になり、プレミアリーグの監督の任期はここ20年の間に半減して1年半以下になっている。監督のクビ切りは効果よりも害になる方が多いという有力な証拠が出ていても、おかまいなしだ。昨年のデヴィッド・モイーズ解任は、ニューヨーク証券取引所が開くタイミングでおこなわれた。

上位チームにおけるイギリス人選手の割合は、1992年のプレミアリーグ開始時には69%だったが、今では32%にまで低下し、プレー機会を狭め人材を枯渇させている。[EU域内の]移動の自由と短期で試合に勝てというプレッシャーが合わさり、こうした状況は必然となっている。海外から完成品の選手が買え、ましてや監督として1年半の寿命しかないのに、スター選手になれるかどうかあやしい国内選手を、なぜ時間と金を費やして育てなければならないのか?経済全般においても、労働者の移動の自由の高まりと、労働者訓練のための予算削減には[フットボールと]同じ関連があり、経済的不安感のとばっちりを移民が受ける原因になっている。

イングランドの将来の展望は、フットボール界内部の権力と資金を再配分するような真剣な改革がないかぎり、改善は見込めないだろう。プレミアリーグのトップクラブは、投資資産や新興財閥の道楽としか考えられておらず、まずはそうした所有権の構造にメスを入れることが、改革の第一歩となるべきである。ファンがクラブの所有権の50%以上をもつことを義務づけているドイツのようなシステムに移行すれば、献身的で長期的なオーナーシップがかたちづくられることになり、フットボールのガヴァナンスの優先順位を変えることができる。ブンデスリーガのクラブは、ユース世代に[イングランドの]2倍の額を投資し、2倍の数の国内選手がいて、監督の任期も2倍長い。ドイツのようなシステムへの移行は、今後徐々になされていくかもしれない。プレミアリーグのクラブについても、ファンによる株式保有が51%になるまで、毎年の入場料収入の一部をサポーター基金に振り向けることを義務づけてはどうだろうか。

第二の目標は、投資をユース世代のトレーニングに振り向けることだ。フットボール界にお金はたっぷりあるが、それは間違った場所に流れている。プレミアリーグの各クラブは収入の71%を選手の給料に使っているが、ブンデスリーガでは51%である。こういうお金の使い方をやめさせるために、リーグ当局ができることは少ないかもしれないが、給与として支払う額の一部を下位リーグのユース・アカデミーの資金に回すよう、トップクラブに義務づけてもよいだろう。短期的成功をあがなうために多額の金を使うクラブは、英国フットボールの長期的未来を担保するためにその金を使うべきだ。

質の悪いフットボールを質の悪い資本主義のせいにするのは、あまりにも短絡的かもしれない。フットボールと資本主義は、短期的成果主義とレッセフェール(自由放任主義)にもとづく国民文化に共通の根をもっている、と言った方が正確だろう。もっと「責任ある」資本主義を築くことができれば、より広範囲にわたる改革の機運が生まれて、フットボール界の欠陥も最終的に是正される可能性がある。もちろん、別の選択肢もある。それは万事問題なしとこのままのやり方を続け、次の金融破綻と次のワールドカップ敗退を迎えることである。



(無責任な訳者の一言) 念のために言っておくが、わたしはこの記事の主張に全然納得していない。サッカー(上部構造)と資本主義(土台)の関係はもっと複雑で、この筆者の考えは結局、単純な決定論の域を出ていない。質の悪いフットボールを質の悪い資本主義のせいにするのは短絡的と言いながら、良質なフットボールが良質な資本主義から生まれるというテーゼには何の疑問も抱いてないようだ。確かにプレミアリーグには問題が多々あるだろうが、「資本主義」的には他国がうらやむ成功をおさめているんじゃないかね。ユース年代の選手育成は実際に大事だと思うが、プレミアで国内選手の割合を高くすれば本当に代表が強くなるんかい。むしろイングランドの選手はもっと海外に出た方がよくないか。この記事が書かれた6月26日はまだ優勝国など決まってなかったわけで、その時点でドイツに見習えと言ってるのは慧眼かもしれないが、ブンデスのオーナーシップ構造を真似れば代表が強くなるというものでもあるまい。まあ、もっとも手っ取り早く代表をパワーアップさせる方法は、UK連合軍の名乗りを上げてベイルを連れてくることかもな。
  1. 2014/08/02(土) 00:00:00|
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資本主義の矛盾:デヴィッド・ハーヴェイに聞く(ジョナサン・ダービィシャー)

The contradictions of capitalism: an interview with David Harvey
by Jonathan Derbyshire / April 11, 2014 / Prospect

原文はこちら

Seventeen Contradictions and the End of CapitalismSeventeen Contradictions and the End of Capitalism
(2014/04/03)
David Harvey

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JD: 著作の冒頭で、あなたは他の多くの論者と同様に、最新の資本主義の危機である2008年の世界金融危機には、どこかおかしなところがあると述べておられます。「現時点までには、何が間違っていたのかという診断が複数下されて、たがいに競合しあっているべきだし、状況を正すための提案が多数あらわれていないとおかしい。なのに新しい思想や政策が貧困きわまりないのには驚くばかりだ」 -- と。それはなぜだと思いますか。

ハーヴェイ: ひとつの仮説として、彼ら[資本家階級]はそもそも新しい思想など知りたがっているのだろうかという疑問が出てくるほど、今日では階級権力が大規模に集中しているのです。現在の状況は経済には悪影響をおよぼすでしょうが、さらに大きな富と権力を集めるという彼らの能力にとっては、必ずしも不都合ではないのです。だから状況を現状のままで維持することに、既得権益がある。1930年代にも、状況を変えないことから恩恵を受ける既得権は確かに存在しましたが、それはルーズヴェルトやケインズ思想などによって打ち負かされた。これはもちろん興味深いことです。

1930年代の思想の中心にあった総需要の問題は、マルクス主義的な用語で言えば、実現問題です。人々はその問題に解答をあたえ、次に生産の問題へと向かった。生産の問題はマネタリズムとサプライサイドの経済学によって解答を見た。そして現在では、緊縮財政をさらに推進すべしというサプライサイド主義者と、ケインズ的方向性をとる中国、トルコや途上国の大半に、世界は二分されています。しかし、あたかも解答はこの二つしかない -- 第三の道などは存在しない -- といわんばかりです。だから、資本主義の枠内では、可能性は限られている。べつの解答を見いだすためには、資本主義の外部に出なければなりません。そしてもちろん、そんな話を聞きたい人は誰もいないわけです!

JD: とはいうものの、資本家階級、知識人階級のなかには、あなたが資本主義の「矛盾」と呼ぶものが脅威をもたらしていると認める一派もいると、著作では述べています。たとえば、不平等の問題についてはさかんに議論されている。

ハーヴェイ: そうした新しいトピックを誘発したという点で、「ウォール街を占拠せよ」(オキュパイ)運動は評価できます。実際に今では前任者とはまったく異なるニューヨーク市長がいて、不平等について手を打てることは何でもすると言っている。そうしたトピックの変化は、「占拠」(オキュパイ)運動から生じたものです。「1パーセント」と言っただけで、何について語っているか誰もが分かるというのは面白いことです。今ではこの1%問題が議題にのぼり、トマ・ピケティの『21世紀の資本論』のような研究によって深められている。ジョゼフ・スティグリッツも不平等についての本を書いたし、他の経済学者もそれについて語っている。IMFでさえ、不平等があるレヴェルに達すると危険が生じると言っているわけです。

JD: オバマだってそう言ってますよ!

ハーヴェィ: だけど、最初に「占拠」運動がそう言っていなかったら、オバマだって口にはしなかったでしょう。しかし、不平等について何か手を打とうとするのは誰で、現実にそれはどういう変わり方をするのでしょうか。実際の政策をみると、かえって不平等を深める方に行っていることが分かる。問題について言葉だけの認識はされていますが、積極的政策や積極的再配分という点から、政治的な認識がされているとはとても言えません。

JD: 「占拠」運動についての話が出ましたが、著作では、あなたは「ラディカル・レフトの遺物」と呼ぶものに対してかなり批判的です。そういうものは大方リバタリアンで反国家主義だと見ておられます。

ハーヴェイ: わたしの大ざっぱな経験則から言えば、どんな主要生産様式であっても、またそれの政治的な分節化であっても、それ自身への対抗形態を生み出すものなのです。たとえば大工場や大企業 --GMやフォードなど -- は、労働運動や社会民主主義の政党をベースにした対抗運動を生み出しました。そうしたものがみな解体されて、現在のわたしたちが置かれている状況もまた同様に、この種の分散化された対抗運動を作りだし、そうした運動は特定の言語を使用して主張をおこないます。左翼が理解していないのは、彼らの言っていることの大半が、本当の意味で対抗的であるどころか、ネオリベラルな倫理に沿ったものになってしまっているということです。左翼に見られるような反国家主義は、現状では企業資本の反国家(統制)主義に回収されてしまっている。左翼の側で「一歩下がって全体像を眺めてみよう」というような考えがあまり見られないことを、わたしは深く懸念しています。わたしの著作がそうしたトピックを論じる一助になってくれるといいんですがね。

JD: あなたの本は面白いところで終わっています -- エピローグの「政治的実践のアイディア」に書かれたプログラム17番のように。しかし、言外にそれとなくほのめかされてはいるんでしょうが、正面切って問われていないのは、そうしたプログラムを実現するために適切な手段とはどんなものか、という問題です。わたしたちはどこでそれを見つけたらよいのか自明ではない。

ハーヴェイ: わたしたちが受け入れなければならないことのひとつが、政治をおこなう新しい方法はこれから生まれつつあるということです。現状では、それは大部分が自然発生的で、長続きはせず、各自の自主性に任されていて、制度的なかたちをとることを渋っている。それがどのように制度化(=組織化)されるのかというのは未決の問題だと思うし、わたしにも分からないのですが、いずれはそうされねばならないものです。しかし、たとえばギリシャの急進左翼連合(SYRIZA)など、新しい政党も出現している。わたしの心配は、著作で「集団疎外状況」と述べたものに、右翼が大規模につけこんでくることですね。だから、わたしたち自身を政治的勢力としてどのように制度化するかという問題に、左翼は一定の危機感をもって取り組まねばならない。それは右翼的な転回に抵抗するためでもあるし、世の中に広まっている不満の多くをすくい上げて、それをネオファシスト的な方向ではなく、進歩的方向に向けるためでもあります。

JD: あなたはこの著作について、「資本主義」ではなく「資本」の矛盾を解体する試みだとおっしゃっています。その区別を説明してもらえますか。

ハーヴェイ: これはわたしのマルクス読解から来ています。マルクスはどういうわけか資本主義の全体理論を作りだしたと思われていることが多いのですが、実際にはそのようなことはまったくしていません。彼はあくまでポリティカル・エコノミーにこだわりぬいて、資本主義経済の経済エンジンがどのように作動するかという問題に議論を限定しています。経済エンジンだけを抜き出せば、経済が抱える諸問題がどのようなものか見えてくる。だからといって、資本主義社会には経済以外の問題はないと言っているわけじゃないですよ -- 人種、ジェンダー差別、地政学上の問題などが存在するのは自明です。しかし(より狭い問題にこだわると)、資本蓄積のエンジンはどのように作動するのだろうか。このエンジンに何か欠陥があるということは、2007~8年の金融破綻以来かなり明らかになりました。だから、その欠陥を細かく吟味することが、より広範な政治に向けた第一歩になるのです。そうした経済エンジンは、予想以上に複雑なものであることが分かった。そして、マルクスは矛盾や恐慌形成といった概念を通じて、経済エンジンを理解するための方法をあたえてくれたのです。

JD: もうひとつ定義についての質問です。資本とは何ですか?

ハーヴェイ: 資本とは、お金を使ってそれ以上のお金を作りだすプロセスのことです。しかし、たんにお金について語るだけにならないよう注意せねばなりません。というのも、著作で指摘したように、マルクスにおいては価値とお金のあいだには複雑な関係が存在するからです。さらなる価値を生みだし、それを占有することは価値追求であり、それはプロセスです。しかし、そうしたプロセスは、さまざまな異なる形態をとります -- 貨幣形態、商品、コモディティー、生産過程、土地など。だからそれは物質的な、事物(モノ)のような発現形態をもちますが、根本的にはモノではなく、プロセスなのです。

JD: 「矛盾」という概念は、あなたの著作では中心的な分析カテゴリーになっています。あなたは、資本主義経済がこうむる(たとえば戦争などの)外的なショックと、あなたのおっしゃる意味での矛盾とを区別しています。だから定義上は、矛盾とは資本主義体制に内在的なものなのですか?

ハーヴェイ: その通りです。生産様式を再設計したければ、内的矛盾がもたらす問題に解答を見いださねばなりません。

JD: あなたは「基盤的」、「動的」、「脅威的」という3種類の矛盾を見いだしていますね。最初のカテゴリーから始めましょう。基盤的矛盾を基盤たらしめているのは何ですか。

ハーヴェイ: 資本主義、資本主義的な生産様式にどこで遭遇しようとも、これらの矛盾が作動していることは分かるでしょう。だから、いかなる経済においても -- 現代の中国、チリ、アメリカであろうと -- たとえば、使用価値と交換価値の問題はつねに存在している。経済エンジンをセットアップするうえで、不変の特徴となるようなある種の矛盾が存在するのです。そして、時間とともにつねに変化し続けるような矛盾もある。だから、わたしは相対的に不変である矛盾と、もっとダイナミックな矛盾を区別したかったわけです。

JD: 基盤的矛盾のなかには、他よりさらに基盤的なものもありますか?あなたの本で印象的なことのひとつは、あなたが使う分析の枠組においては、あらゆることが究極的には交換価値と使用価値の区別から派生しているように思えることです。

ハーヴェイ: ああ、それが分析の出発点ですね。マルクスは分析の出発点を定めるのに多大な時間を費やし、そこから出発しようと決めた。なぜならそれがもっとも普遍的な出発点だったからです。しかし、マルクスはさすがだと思うのは -- わたしは長い間マルクスに取り組んできましたが -- 彼が論じる矛盾がたがいに緊密に関連しあっていることです。たとえば、使用価値と交換価値の区別が、私有財産と国家について予示するものになっていることはお分かりでしょう。

JD: あなたのおっしゃる基盤的矛盾には、「私有財産と資本主義国家」の矛盾というのもあります。つまり、個人の財産権と国家の強制的権力のあいだに見られる緊張ないしは矛盾のことです。ここで、ロバート・ノージックのような人物を想像してみてください。リベラルなロック的伝統のもとで育ち、これは矛盾ではない、それどころか「最小」国家の役割とは私有財産を守ることだ、と言うような人物です。

ハーヴェイ: わたしが矛盾について言いたいことのひとつは、それがつねに潜在的なものであるということです。だから、矛盾の存在が必ずしも恐慌を生むとはかぎらない。恐慌になるのは、ある種の状況下においてのみです。それゆえ、あらゆる「夜警」国家は私有財産を守るという思想を理論的に構築するのは可能でしょう。しかし、夜警国家は現実にはそれ以上のことをやらねばならないということを、わたしたちは知っています。市場には規制する必要のある外部性が存在するし、供給せねばならない公共財も存在する -- だから、まもなく国家はあらゆる事柄に関わりをもたねばならなくなり、たんに契約や個人の財産権の法的枠組を設定するだけではすまなくなるのです。

JD: あなたは資本主義と民主主義のあいだには何らかの必然的なつながりがあるということを否定しています。理由を説明してください。

ハーヴェイ: 民主主義の問題は、それをどう定義するかによって変わってきます。アメリカには民主主義があるということになっていますが、それがちょっとしたみせかけであるのは明白です -- お金と権力の民主主義であって、民衆の力という意味での民主主義ではありませんから。わたしに言わせれば、1970年代以来、金の力で政治プロセスが腐敗していくのを最高裁が合法化してしまった。

JD: 金融危機とその余波、とくにユーロ圏の債務危機において前面に躍り出てきたのが、国家権力の一形態である、中央銀行の権力です。この「ベイルアウト(救済措置)」の時代に、中央銀行の機能に重大な変化があったとお考えですか?

ハーヴェイ: 明らかに変化しました。セントラル・バンキングの歴史は、それじたいものすごく面白いものです。わたしには、FRB(連邦準備銀行)が危機のさなかにおこなったことにどんな法的根拠があるのか分からない。その一方で、ECB(ヨーロッパ中銀)の場合は、マルクスが語った古典的なケースに相当します。彼の考えるところでは、1844年の銀行法のせいで、かえって1847~8年のイギリスの恐慌が拡大し悪化してしまった。でもFRBとECBのケースでは、主要金融機関をある種の「勘と経験によって」調整し、事後的にのみ正当化できるような政策を打ち出してきました。だから、まぎれもなく中銀の側に動きがあったわけです。

JD: 本のなかであなたが何度も立ち返る概念がひとつあります。それは商品化という概念です。

ハーヴェイ: 資本の目的は商品の生産です。商品化されていない圏域には資本は流通できない。資本が侵入口を見いだすいちばん簡単な方法は、国家が民営化の体制をお膳立てしてやることです。それも、実際には存在しないような虚構的なものすら民営化するところまで行っている。たとえば、温室化ガス排出取引などです。排出権の取引は、虚構的な商品を作りだす好例だと言えます。虚構的ではあるが、大気圏中の二酸化炭素の量という点では、ひじょうに現実的な効果をもつ。以前何もなかったところに市場を作り出すことが、歴史的に資本が拡大していく方法のひとつです。

JD: あなたはこの分野でカール・ポランニーの著作に多大な影響を受けていますよね?とくに彼の代表作『大転換』には。

ハーヴェイ: ポランニーはマルクス主義者ではありませんでしたが、土地・労働・資本が通常の意味での商品ではないものの、ある種の商品形態をとっているということをマルクスのように理解していました。

JD: あなたの著作でもっとも印象的な、感動的ですらある側面のひとつが、商品化にともなう人的コスト -- とくに人間経験の、以前は金銭関係(キャッシュ・ネクサス)とは無縁だった諸領域が商品化されていること -- について説明されているところです。これは、あなたが「普遍的疎外」と呼ぶものに関連しています。これはどういうことですか?

ハーヴェイ: わたしたちは、資本が生産性を増大させ、仕事の精神的側面を奪うことで、労働のもつ力をたえず削ごうとしている世界に暮らしてきました。そういう社会に住んでいると、仕事場でやっていることを考えるにつけ、自分たちの生活にどんな意味を見いだせばよいのかという疑問が生じてきます。たとえば、職場に行くのが嫌だ、あるいは仕事に完全に無関心という人が、アメリカでは人口の7割にのぼります。そうした世界では、人びとは労働経験にもとづかない何らかのアイデンティを自力で見つけ出すことを迫られる。もしその通りならば、次に問題になるのは、ではどういうアイデンティティを身につけることができるかということです。答えのひとつが、消費です。したがって、ほとんど有意義な仕事のない世界で、不在の意味を補おうとして、盲目的な消費主義がはびこることになる。わたしは、政治家がもっと雇用創出をと言うのを聞くたびに、たいへん苛立たしい思いをします。どんな雇用を創出するつもりなんですか。

わたしの考えでは、わたしたちの将来性が定めるものとはまったく違うものに自分はなるだけの資格も力もあるという感情から、疎外が生じてきます。となると、異なる可能性を創出することに、政治権力はどれくらい気を使っているのかという問題が出てくる。人びとは諸政党を見て、「何にもないじゃないか」と言う。だから、政治プロセスから疎外感が生まれ、そのことは選挙での投票率の低下にあらわれています。商品文化から生じた疎外感は、異なる種類の自由への渇望を作りだす。世界中でみられる周期的な感情の噴火 -- イスタンブールのゲジ公園、ブラジルの抗議行動、2011年のロンドン暴動 -- は、疎外から肯定的な政治勢力が生まれうるのだろうかという疑問を生じさせます。答はイエスです。可能性はある。しかし、既成の政党や運動のなかにはない。そうした可能性の諸要素は、「占拠」運動やスペインのインディグナドスが人びとを動員したやり方に見てとれますが、あくまでそれは一時的なものです。なにか実体のあるものへと融合したことはない。とはいうものの、反体制的な文化領域には多くの発酵母体があるし、なんらかの希望の源となるような動きは世の中に存在しているのです。

JD: 「脅威的」矛盾についてあなたが論じるとき、マルクスの歴史的唯物論のひとつのヴァリエーションを提示しているようにわたしには思えます。つまり、現在は未来を胚胎している、ただし必然主義者のようにはそれを読み解くことができないだけだ -- というマルクスと同じように、あなたも考えていらっしゃるということです。そして実際に、マルクス自身そうした読み解き方をしたとは、あなたも思っていないわけですね?

ハーヴェイ: ええ、思っていません。資本はみずからの矛盾の重みに耐えかねて崩壊するとマルクスが言ったと思っている人がいる。そして、機械的な資本主義の恐慌理論を作ったとね。しかし、彼がそんなことを言っている箇所はどこにも見つけられませんよ。彼が実際に言ったのは、恐慌の核心には矛盾があり、矛盾は好機であるということです。彼はまた、人間はみずからの歴史を作りだすが、みずからが選んだ状況で作りだすのではない、ということも言っている。わたしの考えでは、マルクスがリバタリアンでもないかぎり、言いたかったのは次のような意味です。すなわち、人間は集団として物事の方向性を決める能力をもっている、とね。マルクスがユートピア社会主義を批判したのは、それが自分の置かれた場所を無視しているように思えたからです。マルクスは、自分のいる場所をまず分析し、使えるものを見きわめ、そのうえで根本的に異なるものを作りあげよ、と言ったのです。(おわり)
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