(注記)以下は、『ニュー・レフト・レヴュー』最新号に掲載されたスラヴォイ・ジジェクの論考"How to Begin from the Beginning"の粗訳である。原文は
こちら。これは、今年の3/13〜15にロンドン大学バークベック・コレッジで開催された"On the Idea of Communism"というシンポジウムでの、ジジェク講演の要旨をまとめたものだと思われる。このシンポジウムは、アラン・バディウ、テリー・イーグルトン、ハート&ネグリ、ジャン=リュック・ナンシー、ジャック・ランシエール、ジャンニ・ヴァッティモ、ジジェクなど、いわゆる現代思想のスターを集めた顔見世興行で、3日間で入場料100ポンドをとる高額花相撲であったにもかかわらず、会場は満員御礼であったとか。ジジェクはオーガナイザーとして最終日に総括的な講演をおこなったらしい。去年の金融破綻に端を発する経済不況を受けて、金融資本主義の大幅な見直しが迫られるなか、市場と国家、自由と統制などの問題を考えるにあたり、いまいちど「コミュニズム」という概念の再検討も必要なのではないか――そうした叩き台を提供することが、このシンポジウムおよびジジェクの目的であろう。
この論考でも、相も変わらぬジジェク節が聞かれるわけだが、個人的なことをいえば、わたしはジジェクの発するメッセージじたいはそれなりに納得できるのだが、その論証やレトリックについては(バディウをふくめて)まったく気に入らない。コミュニズムの可能性と現代の意義を考えるために、レーニンを引き合いにだすという所作は(ここ10年ほどジジェク特有の傾向だが)、それじたい面白い内容をふくんではいるものの、あまり有益だと思えたためしがない。とくにコミュニズムをレーニンの果たせなかった「敗北した大義」(lost cause)とみなし、その「始まり」の可能性を救出しようとするようなやり方には、たくさんの落とし穴が潜んでいると思う。ただし、本論最後の「階級とコモンズ」で述べられているような社会分析は、ラクラウ&ムフ的な敵対性概念を援用しながら、排除のポリティクスに注意を喚起するものであり、そこに再定義されたコミュニズムの可能性を見ようという所作は、べつに目新しいものではないが、あらためて注意を喚起することに意味はあると思う。
SLAVOJ ŽIŽEK, HOW TO BEGIN FROM THE BEGINNING
New Left Review 57, May-June 2009 スラヴォイ・ジジェク「初心からいかに始めるか」『ニュー・レフト・レヴュー』57号、2009年5-6月
レーニンの素晴らしい小論「あるパブリシストの覚書」は、1922年の冬に書かれたテクストである。そのときボルシェヴィキは、あらゆる予想をくつがえして内戦に勝利をおさめたが、新経済政策(NEP)という妥協策をとることを迫られていた。すなわち、市場経済と私有財産の自由度を可能なかぎり高める必要があったのである。それは革命の後退に他ならなかった。レーニンはこのテクストで、未踏の山頂にたどりつくという目標を断念した登山者の喩えをもちいて、革命プロセスにおける「後退」がいかなる意味をもつのか、そして、革命の大義を日和見的に裏切ることなく、いかにして撤退が可能であるかを問うている――
高く険しい未踏の山を登る男を想像してみよう。彼はかつてない困難と危険に打ち勝ち、あらゆる先人よりも高い地点に到達することができた。しかし、山頂にはまだたどりついていない。自分が決めた道を通って山頂に向かうことは、困難かつ危険であるばかりか、端的にいって不可能だという状況に彼は置かれている。[1]
レーニンによれば、このような状況では――
彼は引き返し、山を下り、べつの道を探さねばならない。おそらく時間はかかるだろうが、確実に山頂にたどりつくことのできる道筋を。彼以前に誰も達したことのない高みから降りることは、おそらくこの架空の旅行者にとっては、登ることよりもはるかに危険で難儀な試みとなろう。下降は滑りやすく、足場を選ぶのも簡単ではない。登りにおいて感じるような、ゴールはもうすぐだという高揚感もない。命綱をわが身に巻きつけ、登山杖で足場を切りひらき、ロープを突起にかたく結んで、何時間もの時を過ごさねばならない。歩みは遅々として進まず、下をめざして降りたところで、ゴールからは遠ざかるばかりだ。途方もなく危険で苦痛にみちたこの下降が、いったいどこで終わりをつげるのか、さらに大胆に、迅速に、直接的に、頂上へと向かうことのできる安全な迂回路が、はたして見つかるのかどうか、そんなことも分かりようがない。
そうした立場に置かれた登山者が、「絶望の時間」を過ごしたとしても仕方あるまい。こうした時間がさらに長く感じられ、いっそう耐えがたくなるのは、おそらく下界にいる者たちの声が聞こえたときであろう。彼らは「望遠鏡をのぞいて、安全な場所から彼の危険な下降を眺めている」のだ――「下界から、底意地悪い喜びにふるえる声が響いてくる。喜びを隠そうともせず、にたにたとほくそ笑みながら、彼らはこう叫ぶのだ。「あいつはすぐに落ちるぞ!ざまあみろ、バカ者めが!」。また他の者は、悪意ある喜びを押し隠しながら、「ユダ・ゴロヴリョフのように」ふるまう。この人物は、サルティコフ・シチェドリンの小説『ゴロヴリョフ家の人びと』に出てくる、悪名高い偽善者の地主である――
彼らは悲しみに沈み、うめき声をあげ天を仰ぐ。それはこう言わんばかりだ――「われわれの不安が的中するとは、なんと痛ましい!だが、賢明な登山計画の作成に全力をそそいできたのは、われわれの側だ。だから、その計画が完成するまでは登頂を延期するようにと言ったではないか。あの無茶な男がいましがた断念したばかりのこの道は、さんざんやめるように言い聞かせたものだ。(見ろ、見ろ、奴は引き返しているぞ!山を下りている!一歩降りるだけなのに、何時間もかかっているじゃないか!何度も何度も注意して考えなおすように言ったのに、あいつはわれわれをコケにしやがった)。だから、あの命知らずに身のほどを知れと叱りつけ、他の者にはあいつを真似して手助けするのはやめろと警告した。というのも、この山の登頂計画に全身全霊を捧げていたのはわれわれであって、この偉大な計画がみなの前で貶められるのを避けたかったからだ!」
(つづく)